雄山神社−立山の三社(岩峅寺前立社壇・芦峅寺中宮祈願殿・山頂峰本社) |
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富山、呉東の神社としてまず名前が挙がるものは、やはり雄山神社でしょう。雄山、すなわち立山は古くから霊峰とあがめられ、山宮に分類される芦峅寺地区では遙か平安時代から信徒組織が存在した、とする報告もあります。実際に、広義の立山連峰に属する剱岳の山頂では、平安期の作と推定される錫杖が発見されており、その時点で修験者たちの活動の場となっていたことがわかります。(注) また、一般民衆の参拝が一般化した江戸期にはその荒々しい山様がこの世に現れた地獄とされ、畏怖の対象にもなりました。 この信仰の広がりは江戸中期〜後期にかけて頂点を迎え、その波は幕府の大大名、そして江戸城の大奥にまで達していました。現在でも富山県、特に呉東地域においては格別の知名度を誇る神社であり、年始ともなれば多数の参拝客を集め、麓から交通規制が敷かれるほどになります。 さて、その雄山神社ですが、標高が上から山頂峰本社、芦峅寺中宮祈願殿、岩峅寺前立社壇という3つの神社が存立しています。江戸期においては芦峅寺・岩峅寺両村が苛烈な訴訟合戦(特に立山大権現の祭祀権、山中の諸権利などを巡る対立)を繰り広げており、また経済上の理由もあって加賀藩の直轄地となっていましたが、現在では1つの宗教法人に統合され「三位一体」、つまりどの社に詣でても御利益に違いはない、としています。 注:古くは現在の剱岳が「たてやま」、あるいは「たちやま」と呼称されていたことは確実で、時代が下るにつれ『立山』の領域が移動したものと考えられます。 山頂峰本社
標高3003メートルの高地、雄山山頂に座する神社で、正に「雲上の社」です。ただ、バスターミナルがある弥陀ヶ原まではほとんど歩くことなく到達可能なので、参拝自体はそれほど困難ではありません(マイカー規制のため弥陀ヶ原までは立山高原バスのみ)。 また、富山市内からであればほとんどの人は日帰りで登山出来るため、県内の人であればかなりの割合で登山経験があります。 「立山縦走ルート」を含めても休憩時間を除いて7時間ほどで走破でき、現在は手軽に自然を満喫できる山として人気があります。 当然ですが開山期間(夏期)以外は参拝できません。 ↑地獄谷 立山火山の噴火口であり、現在も盛んにイオウなどを含んだ水蒸気を噴出しています。立山がかつて「この世に現れた地獄」として恐れられた理由の1つ。特に最近は活動が活発になっているようです。 芦峅寺中宮祈願殿
通称「上のお宮さん」こと芦峅寺中宮祈願殿です。本殿は残っておらず、現在本殿として使用されている建物はかつて講堂として用いられていたものです。そのためか、参道正面からそれた場所にあります。しかし、一旦は廃仏毀釈で手放した背後林を買い戻したため、美しい自然を有する山宮となっています。となりの立山博物館では立山信仰について詳しく学ぶことも出来ます。 現在でこそ富山を代表する神社の1つですが、江戸期には岩峅寺との訴訟に敗れ山中の一切の権利を失ったほか、「立山大権現」付門徒として振る舞うことも出来ませんでした。そのためにある時期の芦峅寺では困窮を極め、檀家を他家に切り売りすることで生活する者も出たほどでした。 しかし、村内ですべての宗教行事を行うようになったことで行事の多様・頻化、大規模化が進み、江戸末期に行われた「布橋灌頂会」には加賀藩内外から2000人もの人々が詰めかけ、藩士が警戒に当たったという記録もあります。現在でも平均して月4回以上の何らかの行事があります。 この芦峅寺で特徴的なものに「おんばさま」が挙げられます。一説には地母神と奪衣婆が習合した姿とされ、女人救済のシンボルともなっています。 なお現在のうば堂は昭和初期に立て替えられたものです (左)恐ろしい顔をした「おんばさま(「うばは女偏に田を3つ重ねる)」 (右)女人救済行事、「布橋灌頂会」の現代的再現(*photo (C) izayomu 禁転載 この写真は事前に実行委員会に連絡し、一般見学者の見学が許可されたエリアから撮影したものです。) 岩峅寺前立社壇
最も富山市内から近い社で、常願寺川を渡ってすぐのところにあります。こちらは早くから周辺の宅地化が進んだためか、あまり背後林の買い戻しは行っていません。 江戸期を通して続いた芦峅寺との訴訟合戦の勝者であり、かつては立山山中の一切の権利、および「立山大権現」の祭祀(別当)権と「立山大権現」を示す幟を立てる権利を有していました。現在でも山頂雄山神社の神職は基本的には岩峅寺前立社壇が担当しています。 *立山に登山する場合には、事前に十分に計画を立てた上でお出かけください。 改訂2版:2012/12/08誤字修正 |
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